「なくせニュークス2001MIC長崎フォーラム」は8月8、9の両日、被爆56年目を迎えた長崎に約90人が参加し行われた。
初日は長崎湾を見下ろす高台のルークプラザホテル3Fで、司会も務めた長崎マスコミ共闘の松永議長(長崎テレビ)が「映画『パールハーバー』を見たが、戦争開始の暗号電文『ニイタカヤマノボレ』は長崎の島から発したもので、その見返りが最後は原爆。継承の風化、被爆遺構も少なくなってきた。近い将来、戦争、原爆の事実が忘れ去られてしまう。何とかしないと…」と開会のあいさつを述べた。また、MICの今井議長は「昨年11月の核兵器廃絶地球市民会議ナガサキには5600人が参加した。労働組合はタコつぼに陥るのではなく、原爆反対の運動へ再編成しなければいけない」とMICを代表してあいさつした。
家の下敷きになった友人を救えなかった
「高校生一万人署名」実行委員会からの報告で、長崎西高三年の石司(いしづか)真由美さんは「長崎では98年から平和大使を国連へ派遣しており、私も昨年ジュネーブへ行き、スピーチした。被爆者の祖母は、爆心から1.2キロ離れたところで被爆、自宅までの道を歩く途中、浦上川を見ると折り重なるように亡くなっている人々。鉄骨はアメのように曲がり、両親、妹は燃えていた。あの時、家の下敷きになった友人を助けることが出来なかった。『命の大切さを人間から奪うのが戦争』と祖母は語った。祖母は夫にも、子どもにも言わなかった被爆の当時のことを、ジュネーブに行くことになった私に話してくれた。祖母は8月9日が誕生日で、明日78歳です。昨年8月22日、国連欧州本部でスピーチしたら、政務官が『とても高貴で素晴らしい。手を取り合って頑張っていきましょう』と言われた。また『国連は核兵器廃絶を掲げていない。インド、パキスタンの核実験を食い止めるのに精一杯。貧困、差別などの解消も目標にしている』と言われた。アウシュビッツ強制収容所を見学して『近い将来、同じ過ちを繰り返さないだろうか』と思った。帰国して、何かしなければと思い、今年一月から高校生一万人署名に取り組んだ」と述べ、会場は彼女の思いと行動力に感動の拍手をした。続いて大村城南高三年の宮原司優子さんは「沖縄の糸満市に小学生の頃住んでいた。平和教育で平和の尊さを学んだ。ぬくもりを長崎の人たちに分けたい。昨年国連に行った時、アンネ・フランツの隠れ家で、毒ガスの空き缶の山を見て、ヒトラー、ナチス、人間のもつ残酷さ、罪深さを見た。YWCAの人、被爆者の皆さんなどと出会い、人の温かさを知った。二十一世紀に希望を持ちたい」と報告した。
50年前の事実を明確にして欲しい
会場からの「大人の人に言いたいことは」の質問に対し石司さんは、「靖国、教科書など学校現場では教えない。これがまずい。大人の人には50年前の事実を明確にして欲しい」と答えた。
続いてテレビ長崎作成のビデオ「沈黙のマリア〜ナガサキから未来を見つめて」が上映された。45年10月に復員してきた、浦上出身のトラピスト会司祭・野口嘉右ェ門師が、函館の修道院に帰院する前に焼け野原の故郷に立ち寄り、見るも無惨な天主堂で、ガレキのすき間に、この「マリアの頭」を奇跡的に見つけ、その後、マリア像は数奇の運命に…。
原爆より差別の方がもっと恐いんだ
休憩を挟んで講演「韓国・朝鮮人被爆者問題が照らし出されるもの」は講師に在日朝鮮人の李康寧さんが「43年12月に令状で長崎で生活。駅前の本蓮寺に収容され、軍隊生活のようだった。三菱兵器の大橋工場で鍛造工場に配置され、熱処理部で三カ月教育受けた。艦船魚雷は茂里町、後方魚雷は大橋工場で作っていた。被爆当時、前日からの夜勤(12時間交代制)で7時に寮に帰り、朝ご飯を食べ、睡眠。14〜5名が戻った。11時過ぎにすごい光線が走った。うつぶせでいたら、爆音と風で障子、窓ガラスが全部飛び散った。瓦は飛ぶし、洗濯していた寮生3名は即死。まず重傷の人を救護するため勝山小学校へ行ったが、満員で全部『赤鬼』だった。ロッキードP38二台が飛んでいる。浦上の方でキノコ雲が発生、30分たったら黒い雨が降った。75年にようやく原爆手帳をもらった」と当時を思い出しながら語った。高實康稔さんは「被爆者援護法は402号通達(通達行政)で居住を条件とした。日本人被爆者と在日外国人被爆者を『国民』という名で差別する。原爆より差別の方がもっと恐いんだ。裁判になると、日本は『国家無答責論=国家無責任論』で戦後補償を逃れている。靖国参拝、慰安婦、教科書…国際法に弱い日本。ドイツのような戦後補償法を作らないと。このままだと子どもたちが『人間としての誇り』を失っていく」と話した。
初日は夕方から交流会を行い、各単産ごとに自己紹介し、楽しく懇談し、それぞれ長崎の夜に繰り出した。
「沈黙のマリア像」を間近で見る
二日目は朝9時に長崎新聞社に集合、慣例の平和散歩に出かけた。ところが天気はあいにくの雨、時々雷を伴って激しく振り、参加者は腰から下がびしょぬれになるほどだった。
一本柱鳥居から始まった平和散歩は、被爆クスの木、旧長崎医大門柱と続き、浦上天主堂では前日、ビデオで見た「沈黙のマリア像」を間近で見ることが出来、参加者は感激。平和記念式典の会場を通り抜け、原爆落下中心地公園で11時2分黙祷をし、献花を行った後、MIC事務局長が閉会のあいさつを行い、解散した。
この集会を運営していただいた長崎マスコミ共闘の皆さん、中でも宮田事務局長(長崎新聞社)には集会の準備から当日の運営まで、感謝します。
(MIC事務局長) 鋤柄 誠
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