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※はじめに
私は、広汎性発達障害と統合失調症の精神障害者手帳2級の精神障害者です。
この報告書は、私の一方的な私的な意見かもしれません。私と関わった、関係者の言い分も在るかもしれません。しかし、なるべく事実に基づいて綴りました。どうか、信用していただきたいです。
社会福祉法人そうそうの杜について
私は、幼少の頃から、他人の話が、余り聞き取ることができなかったです。しかも、手先が、不器用で運動神経が、鈍く、記憶力や読解力が、弱くそれが、虐めの原因でした。
社会人になっても、それが、職場での人間関係の形成の阻害になって、居辛くなり、職を転々としてしまう羽目になってしまいました。
平成19年4月末に、1年2ヶ月勤めて、辞めてしまったビル管理会社の後、NHKのTV番組の”ハートをつなごう”という番組で、発達障害の特集を見ました。
番組の中で、他人の話を聞き取れなくて、職場の同僚との軋轢を生み、職を転々としてしまう中年女性や20代の元専門学校教員の話が、私自身のそれまでの体験と重なり合っていることに、驚きました。
早速、インターネットでその精神障害者の専門の相談窓口を検索し、平野区の大阪市発達障害者支援センターエルム大阪にアクセスして、相談しました。
結局は、対応窓口の職員さんの糠に釘を打つような、消極的な態度に閉口しました。
喧嘩は、しませんでしたが、なんとも腹立たしく思いました。
しかし、エルム大阪を通じて、大阪東職安の障害者就労窓口の女性担当者に、話が通じて、障害者雇用の相談が、始まりましたが、金銭的な支援の話に繋がらず、刹那的な短期日の就労を繰り返さざるを得ませんでした。
つまり、金銭的支援がなく、所持金も心細かったので、就職を果たし、障害のために同僚との軋轢で短期日で退職を繰り返すことをしてしまいました。
エルム大阪の相談と同時にかかりつけの病院を方々探し、大阪市住吉区の大阪府こころの総合健康センターに辿り着きました。
何度かの通院と精密検査の結果、ようやく精神障害者2級の手帳を手にすることが出来ましたが、如何せん所持金が、小額だったので、障害基礎年金を申請したかったのですが、
かかりつけの病院のケースワーカーの抵抗で、申請が、難しくなりまして、障害基礎年金の申請支援を仰ぐために、大阪市城東区の鴫野にある社会福祉法人そうそうの杜に相談を持ちかけてしまいました。
今考えれば、障害基礎年金申請が、なかなか通らなかった理由は、当時の小泉政権時代の自己責任、競争原理、公から民などの新自由主義政策のためになかなか受付けてくれなかった為だと思います。
大阪東職安の障害者雇用相談員の方は、専門外だと、障害基礎年金の申請支援を嫌がって、仕方なく、社会福祉法人そうそうの杜に相談を持ちかけた次第です。
そうそうの杜の代表者の吉見あざみ(女性)は、私の話を聞き取ってくれて、支援を約束してくれましたが、そうそうの杜の規模が、明らかにお金のない貧乏団体だと思いまして、
そうそうの杜さんでは、積極的な支援は、無理だろうなと正直思いました。
それが、後になって、痛感しました。
一旦、そうそうの杜と相談を取りやめていました。
しかし、私の所持金が、残り僅かで、父母も私に対して、”精神的に弛んでいるだけだ”と障害のことに関して、耳を貸してくれませんでした。
一旦、相談を取り止めたそうそうの杜との関係を、私が、接近して障害基礎年金の申請支援を再び取り付けて、必要書類を纏め上げられて、社会保険事務所への申請に漕ぎ着けたのでした。
けれども、障害基礎年金は、月々の給付金額が、4万2千円ゆえに、やはり就労して収入確保の道をやらなければならず、そうそうの杜との繋がりのある大阪市職業リハビリテーションセンターにて、私の就労支援をすることになりました。
大阪市職業リハビリテーションセンターの事は、別途記述します。今は、そうそうの杜についての記述です。悪しからずです。
続いて、そうそうの杜の記述です。大阪市職業リハビリテーションセンターの入所後のそうそうの杜との関係の話です。
大阪市職業リハビリテーションセンターは、そうそうの杜の支援で、入所できた次第ですから、当然、そうそうの杜との関係は、続いていました。
大阪市職業リハビリテーションセンターでの訓練期間中は、障害者手帳を申請する当時から、私は、所持金が、余り余裕がありませんでした。
そうそうの杜の代表者の吉見あざみにその事を相談しても、あしらわれたり、話を反らせられたりして、取り合ってくれませんでした。
何故、お金が必要かといえば、かかりつけの病院の診察代、日々の食事代などで、親から工面を取り付けられませんでした。
実を言えば、大阪市職業リハビリテーションセンター入所は、両親に内緒で通っていました。両親には、事後承認を頂ましたが、両親は、私の障害について否定的でした。
こっそりと土日にバイトを余儀なくされました。バイトの職種は、交通誘導警備員です。
私は、職を転々としてしまいましたが、交通誘導警備員だけは、長く続きました。
警備会社の部長さんには、私の事情(障害者で、しかも、養護学校通いをしている事)は、伏せて、うまく、土日に警備員として稼動していました。
しかし、如何せん、土日バイトと平日の大阪市職業リハビリテーションセンター(養護学校)との二束の草鞋は、辛くなってしまい、そうそうの杜にお金の支援をお願いしましたが、
代表者の吉見あずさは、そうそうの杜の事務所にて、スタッフの中で、怒鳴ったり、罵声を浴びたりして、私を針のムシロに晒しました。
仕方なく、引き続きこっそりと、土日バイトを余儀なくされ、時々、そうそうの杜から短期雇用の臨時収入を按配してくれましたが、如何せんすずめの涙で、引き続きこっそりと土日バイトを余儀なくされました。
何度となく、そうそうの杜の吉見あざみ代表者にお金についての相談をして、怒声、罵声、針のムシロに晒されて考え方を誘導されて、3ヶ月以上の短期雇用の話もあり、実際に就労できてまとまった収入もあり、警備会社は、一昨年の2月に清算してしまいました。
お金のこともそうですが、大阪市職業リハビリテーションセンターの訓練内容にも閉口しました。
私は、ビジネスパートナーという訓練部署に所属していましたが、内容は、知的障害者のカリキュラムに基づいた内容でしたので、なんとも不満でした。
その訓練であり付けれる仕事も、単純な作業系の仕事だろうなということは、当時から、わかっていました。
その予感は、今年の1/20(金)まで勤めた合同東邦鰍ナ確認しました。
その事をそうそうの杜の吉見あざみ代表者に相談したら、お金の時と同じで、スタッフの前で罵声・なだめすかしなどで、針のムシロに晒し、私を誘導しました。
今年の1/20(金)まで勤めた合同東邦鰍ヘ、倉庫作業で、ピッキングといって、商品を探し回るために、一日中、倉庫内を歩き回るために全身筋肉痛になり、この合同東邦紹介の頃から入社を私は、嫌がりましたが、そうそうの杜の代表者の吉見あざみは、同じように罵声・なだめすかし、針のムシロで、私は、その会社入社を呑んでしまいました。
今考えれば、吉見あざみのマインドコントロールだったと思います。
大阪市職業リハビリテーションセンターについて
先述のごとく、大阪市職業リハビリテーションセンター(養護学校)は、社会福祉法人そうそうの杜の紹介で入所できました。
私の所属訓練科目名は、ビジネスパートナーだったです。
この訓練内容は、発達障害のための職業指導の筈ですが、実際の内容は、知的障害者の教育カリキュラムに基づいた内容でした。
訓練内容は、弁当の注文、名刺作成、購入代金の出納帳記帳、A4用紙の紙数え、漢字の書き取り、ワープロ入力(ブラインドタッチ)などでした。
私は、職を転々としてしまいましたが、これでもかつては、郵政事務官A種(特定郵便局職員)だったので、こんな訓練内容では、事務職は、就けないだろうな?と疑問を持ち続けていました。
訓練生修了生の中には、事務補助として、就労していますが、大概の訓練生は、清掃や倉庫要員などの作業系の就労をしているのが、実態です。
私は、職を転々としまいましたが、出身大学が、理系であることから、電気主任技術者3種を取得していましたので、自習訓練の一発目は、大手電機機器メーカーのキーエンスでした。
しかし、キーエンスでの実習が、始まったと途端、如何せん、大阪市職業リハビリテーションセンター以前の職歴から、電機系統の職種には、この障害で就くことは、難しかったので、実務経験不足から自習訓練の中断を余儀なくされました。
キーエンス自習失敗から、私の就労指導は、知的障害者の内容になっていきました。
2発目の企業自習は、特例子会社の横河ファンドリーでした。
既に大阪市職業リハビリテーションセンターから就労している先輩2人(当然、私よりも若い。けれども、先輩)の若い発達障害者にこっぴどくやられました。
作業内容が、営業資料の整理で、パターンでスピーディに出来ない動作の鈍い私は、若い先輩にこっぴどくやられてしまいました。
それを察知してか?、もう一方の若い先輩(私の年齢に近い方)が、心配して、そのこっぴどく当たる若いやつに一言注してやろうかと、案じてくれましたが、実習期間中にそれで、虐めの原因になると思い、その申し出を断りました。
横河ファンドリーの実習のあとの半年後には、シャープの特例子会社での自習でした。
シャープさんでの実習内容は、営業活動で生じた各種請求書を整理整頓する内容でした。
パターン的な内容で、次に繋がらなかったです。あっと、言う間に終わりました。
私は、大阪市職業リハビリテーションセンターに2年間在籍しましたが、訓練期間中、そうそうの杜の吉見あざみに相談したように、日々の生活費について、指導員の井上宣子女史に相談しましたが、井上指導員は、それを吉見あずさと同じように聞く耳を持ちませんでした。
或いは、私が、こっそり土日にバイトをしている事に不快感を示しました。
そして、この井上指導員は、給与の高い職種は、私では、無理だと罵声を吐きました。
お金のこと、就労先のことで、井上指導員とそうそうの杜の吉見あずさに対して、不信感と嫌悪感を抱きました。
そして、3ヶ月のPDFの入力作業の短期就労を経て、今年の1/20(金)まで1年8ヶ月勤めた合同東邦竃k大阪営業所での過酷な職場いじめの体験が、待ち構えていました。
合同東邦鰍ナの作業内容は、先述の如く、商品のピッキング作業で、何列にも並べられた棚の格段にそれぞれの商品(薬品)を配置され、その箱にプリントされたバーコードを専用のエニフというPOS認証機で読み取って照合し、それを取り出して、配送の箱に収める作業です。
目的の商品を探し回るために、一日中、倉庫内を歩き回り、棚の格段を立ったりしゃがんだりして、体を動かす作業は、一日終われば、全身筋肉痛になり、歩けなくなります。
私は、余りの筋肉痛で、仕事が終われば、私の自宅の近所の鍼灸院で鍼治療を施してもいました。そうしないと、翌日に仕事にならないからです。
そして、ピッキングの仕事以外に”カルタ取り”と言われる商品が、乱雑に入った箱から、読み手の指示で、目的の商品を取り出して、配送の箱に入れる作業が、ありました。
私は、乱雑なものを取り出すさ事は、苦手です。
発達障害特有の頭の切り替えしが、うまく働かずに、商品の誤取(つまり、おてつき)で、倉庫のメンバーの里 和孝、大塚正明、職長の石谷 聡、元課長の束村耕造に随分こっぴどく罵声を浴びせられました。
合同東邦鰍フ倉庫の同僚への配慮も全くなく、私の担当者の橋詰要一は、定期的に職場訪問をしましたが、石谷にしか世間話をせずに、私の障害の特徴の啓発などを怠っていました。
ピッキングとは、商品を出来るだけ多くさばくのが、勝負どころです。つまり、スピーディさと正確さが、命です。
何度も言うように、頭の切り替えし、動作の鈍さなど、倉庫の同僚の私への障害の特徴の無理解から、先述の里 和孝、大塚正明、束村耕造、山本 治にこっぴどくやられました。
余りの私への酷い扱いにたまりかねて、私は、一昨年の年末から昼食は、倉庫事務所で一人で取るようになりました。更にいじめの実態を綴ります。
里 和孝は、ピッキングの伝票を私の前で隠したり、私の目掛けて伝票の紙をはたいたりなどのガキッポイ嫌がらせをしました。
山本 治は、商品の数量を間違えると、我が物顔でベテランの正確さを自慢して、私を侮辱しました。今考えると、何のとりえもない我がの駄々だと思います。
大塚正明は、束村や石谷と同じで、先述のカルタとりで私が、商品を間違えて取り出すと”お前、俺の話を聞いてへん!?”と嫌味を吐きます。
そして、この大塚正明は、私が、倉庫事務所で一人で昼食を取ってくるようになると、私のそこ行為を自分等(里 和孝、大塚正明、山本 治)の面々が、私が、その面々を嫌っていると取るようになって(実際その面々が、大嫌いでした)、配送係りの西川晃平というチンピラにちくりました。大塚正明は、女の腐ったようなちんけな老人です。
西川晃平は、私に対する嫌がらせとして、私を睨み付けたりして、威圧しました。
統合失調症の症状で、過去の嫌がらせやいじめ体験が、頭に残る特徴で、随分とこの西川晃平にも苦しめられました。
大塚正明は、私が、倉庫の面々を嫌って、一人で昼食を取るようになった時に、私に対して、私と大塚正明の二人っきりになった時に大塚正明の私に対する悪いイメージを罵詈雑言で吐き捨てました。
石谷は、合同東邦葛ホ務最週の1/16(火)の昼食時に私に対して、”Nxさん、人の話し聞いていない”とへらへら笑いながら、その侮辱的な言葉を吐いていました。
それを一緒に聞いていた、岩佐という倉庫作業員も黙って聞いていました。
昨年の10月頃からか、余りの職場いじめに耐えかねて、私の担当者の橋詰に相談しましたが、なんの対応もしませんでした。
この橋詰は、指導員でありながら、他人に対して物事を説明する事が、下手のやつです。
一昨年のJSNという発達障害支援組織の公演(私が、これまでのヒストリーを述べた)で、大阪市職業リオハビリテーションセンターの説明を長々と喋り、聴衆を呆れさせました。
もしも、この橋詰に倉庫の職場への同僚の私の特徴の啓発をお願いしようものならば、誤解を招き、更なるいじめに発展することは、間違いなしです。
ついに堪り兼ねて、昨年の11月17日に合同東邦鰍フ退職の意思を伝えました。
1/20(金)までの退職まで、里や大塚、石谷、山本の嫌がらせに耐えに耐えました。
そうそうの杜や大阪市職業リハビリテーションセンター、そして、今回の合同東邦鰍フこれまでの私に対する待遇で、これら3組織とは、絶縁しようとおもいました。
1/20(金)の最終日に橋詰要一が、来社して、石谷に挨拶し、私と橋詰は、会社を後にしました。
帰路で、私は、そうそうの杜と大阪職業リハビリテーションセンターとの関係を終了することをもうしでました。
橋詰は、御堂筋線の出入り口で、私を引き止めようとしましたが、私が、何度も”嫌です”を繰り返し、最後に思い切って、”それでは、お世話になりました”で、締めくくり、この忌まわしいそうそうの杜と大阪市職業リハビリテーションセンターとの関係に終止符を打ちました。
最後に
1/20(金)退職後から数えて半年が、過ぎようとしています。
そうそうの杜の吉見あずさと大阪市職業リハビリテーションセンターの井上宣子、橋詰要一には、怒り心頭になっています。
吉見あざみは、お金のない私に対して大阪市職業リハビリテーションセンターでの訓練継続が、出来るように生活保護などの経済的な支援すらせずに、金銭に関して私に自己責任を押し付けました。
井上宣子に対しても、障害者に対する配慮など欠片もありません。私に対して侮辱的な発言をしました。
橋詰要一は、私の職場での配慮をしませんでしたし、私の障害に対して、懐疑的な見方をしました。
懐疑的な見方とは、私の統合失調症を”うそ”と吐いたことです。
障害者雇用は、例えば、先述の横河ファンドリーみたいに営業資料の整理など、単純作業が、メインです。
大阪市職業リハビリテーションセンターと繋がりある、東京海上キャキアサービスやニッセイニュークリエーションの障害者雇用の作業内容は、紙数え、パンフレット仕分け、封筒張りなどで、仕事のないときは、マナーの本をひたすら読みこなす作業になっているのが、実態です。
つまり、仕事としては、単純作業が、障害者雇用を指導する立場の人間にとっても、都合よいものだと、言えます。
私にみたいに、理系の専門教育を経てきた人間は、それらの仕事に馴染む様に、罵声・ほのめかし、針のムシロなどのマインドコントロールしているものだとこの4年間もの経験で判断できました。
また、生活保護など金銭的支援は、そうそうの杜や大阪市職業リハビリテーションセンターの指導員の力では、認定取得できないし、小泉政権からの障害者自立支援法の縛りで、それが、タブーだった事が、考えられます。
私は、組織の論理のしわ寄せをモロに受けたと言えます。
年金もまともに掛けていなかったぐうたらな老人に生活保護を支給するならば、我々障害者に生活保護を優先させろと言いたいです。
全国のあちこちで、このようなケースで苦しんでおられる方々が、いると思います。私たち障害者が、住みやすい職場環境になるように、更に吉見や井上の理想的な障害者像になるようにJSNの講演会などの茶番にも付き合わされました。
この話の一部は、橋下が大阪府知事時代の時期の話でもあります。
現在は、大阪市長を気取っていますが、自身の組織の実態を把握していないところをみるとやはり、屁理屈屋さんでしかありません。
人は、屁理屈では付いてきません。昨年の市長選での当選もノリに乗っただけなのです。
次回の衆議院選挙の候補者を送るそうですが、世の中甘くありません。
維新の会のメンバーも府知事も含めて、マジで橋下に付いてこれる奴が何人いるか?
話は、戻しますが私のけこの忌まわしい経験が、障害者雇用において場環境実現のためにならんことを祈ります。 |